(株)ユー・エス・ジェイ、エンターテイメント部 (大阪府大阪市)
・・・<クリエイティブ・コーディネーター・通訳・翻訳業務> (2004年 - 2008年)
・・・<プロダクション・コーディネーター> (2005年 - 2007年)
金光藤蔭高等学校 (大阪府大阪市)・・・<英語教師>
(株)O.T.C. (大阪府大阪市)・・・<英語教師>
(株)ユージック・・・<国際営業部>
大阪市教育委員会・・・<外国語補助教員>
(株)ユー・エス・ジェイ
ショーの台本や説明文を始め、様々なショーに関係する書類を翻訳。新しいキャストが来日する前にスカイプにての日本語レッスン
ビリー・エリオット(アメリカのブロードウェイミュージカル)
アメリカやイギリスにいるプロデューサーと日本の劇団四季とのスケジュールや契約等に関するやりとり翻訳
(株)インターグループ
小規模から大規模まで様々な翻訳や編集プロジェクト。主に関西地区の観光地に関する日英辞書で使われる4000文の表現翻訳や日英音声処理用辞書作成作業
(株)翻訳アトリエ
広告用コピー、マーケティング用資料、そしてテレビCMや番組制作に関する資料を始め様々な翻訳や編集作業
(株)TBSJ
主に日本の大手インターネットストリーミングサイトの番組や映画あらすじの日英翻訳
(株)ネゴシオ
医療機器を販売するため、医療に関する様々な記事の翻訳業務
Word 4 Word事業
主に高等教育やウェブサイトのローカライズに関する様々な翻訳業務
(株)イングリッシュ・エル・スクール
自動車技術や契約書類を含む様々な翻訳業務
(有)長野外国語センター
テレビ制作、地域の企業推進、観光等を含む様々な翻訳作業
エムティラボ(株)
観光やウェブサイトのローカライズを含む様々な翻訳業務
京都大学大学院教育学研究科
海外プレゼン資料やアンケートを含む様々な翻訳業務
長野弁護士会
日本人の弁護士に同行し、日本語が出来ないクライアントとの面会の通訳。日本の法律制度、法律、訴訟手続き、事件現場、目撃者の証言、及び証拠の説明、また、裁判を準備するための模擬訴訟の尋問などを通訳する。法律的な文面を翻訳する。
アメージング・レース(エミー賞受賞アメリカのテレビ番組)
シーズン26のアメージング・レース長野レッグ(行程)において通訳、プロダクション・アシスタント・ローケーション・マネージャー、及びコーディネーターの役割を果たした。ロケハンに同行。地元の企業や業者と交渉し、アメリカ側との架け橋になった。
FIA 世界耐久選手権
4日間に渡り、富士スピードウェイにて行われる国際自動車連盟主催の世界耐久選手権に通訳者として参加。
サマーソニック(毎年8月に行われる日本最大級のライブイベント)
出演する有名海外アーティストのアテンド通訳業務。様々なバンドと一緒に3〜4日間東京〜大阪間を移動して、厳しい日程に添えるよう誘導した。
第29インド衣料品展・第19インド家庭用品展
3日間に渡り、インド貿易振興局が主宰するイベントにて商談等での通訳業務。
東アジア競技大会(ハンドボール部門)
公式会議、食事会、開会式、閉会式、及び公式試合での、審判、コーチ、及び日本ハンドボール協会の職員を含む管理部の通訳業務。
インタースクール 大阪校
会議通訳コース
イリノイ大学 アーバナ・シャンペーン校
文学士号
東アジア言語学と文化学、政治学
関西外国語大学(大阪)
留学プログラム
シカゴで生まれ育ち、日本のことなど何一つ知らなかった私の日本との最初の出会いは、13歳の夏でした。ホストファミリーとして、日本からの交換留学生を迎えた時のことです。彼女の英語はお世辞にも上手ではなく、私の日本語も勿論ゼロ。 それでも二人は意気投合し、あっという間に大の仲良しになってしまいました。
彼女が日本に戻ってからも、私たちは手紙を交換し続けました。そして今度は私が大阪の彼女の家で夏を過ごせるようになったのです。 私はそのとき16歳でした。その日本滞在の体験は、私の中の何かを劇的に変えました。人生の目標のようなものが見つかったのです。日本と恋に陥ってしまった私の心には、「大好きな日本を世界中に知ってもらいたい」、そんな情熱が燃え上がっていました。 逆に日本の人たちにも、「たとえ肌の色、顔かたち、話す言葉が違っても、私たちを結びつけてくれる何か共通のものがある」ことを是非伝えたいと思いました。
20余年を経過した今でも、あの時、私の心を突き動かした「情熱」は少しも衰えていません。 それは、一生涯をかけてでも、人の心と心をつなぐ架け橋になりたいという、カタリストとも呼ぶことのできる抗しがたい力でした。
16歳の時に体験したあの日本の夏がきっかけで、私はイリノイ大学で日本語を専攻し、東アジアの言語や文化を勉強するようになりました。在学中、私は枚方市の関西外大で半学年を過ごす機会に恵まれました。 日本の人たちが英語を話す世界とつながりを持つのをお手伝いしたい、私のそんな抱負をさらに強めてくれたのがこの時期でした。イリノイ大学卒業後、今度はJETプログラムのALT(外国語指導助手)として大阪に在住することになりました。 そして3度のALT契約を更新した時には、私の中の日本は、しっかりとした礎を持つ確かなものに築き上げられていたのです。
それからの4年間を、私はあちこちの学校や会社で英語を教えて過ごしました。 英語でコミュニケーションをするためのツールを生徒たちに提供するという自分の仕事は、実際、やりがいのある仕事です。 でも、何かが欠けていました。自分が手がけた仕事の実を自ら味わうことがほとんどできずにいたからでしょうか。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンで仕事ができるかもしれないということを耳にしたのはその頃でした。自分のバイリンガル能力を活用できる場所です。 初めの内は、プロダクション・コーディネータとして、新しいショーの製作を担当する日本語側と英語側の仲介役を務めました。 コスチュームや小道具を調達したり、リハーサルやミーティングでの通訳をしたり、スケジュールや日程を立てたり、脚本、メール、プレゼン、マニュアルなどの翻訳をしたりしていました。 自分のバイリンガル技能が鍛えられるだけでなく、外交手腕や組織力なども磨かれていきました。
担当していたプロダクション関係の仕事も大好きでしたが、充実感や達成感を持てたのはやはり、自分が英語を話す人たちと日本語を話す人たちとの架け橋になっている時だということに気づいたのは、USJに勤めていたこの時期でした。自分の職種を「翻訳・通訳」と呼ぶことにしたのはそのためです。 インタースクール大阪校で会議通訳コースを受講し始めたのもちょうどその頃でした。
夫と出会ったのも実はこの頃です。会議通訳コースを修了した私は、彼の住む長野に行って一緒に家族を始める決心をしました。勿論、仕事も新たにスタートです。
フリーランスの通訳・翻訳者として働き始めて7年になろうとしています。この職種でのキャリアで言えば15年以上に及びます。人々が互いにコミュニケーションを取り合い、協調して働くのをサポートする自分の仕事が実を結ぶのを見るのは、それ自体報酬であり充実感に満たされる思いです。 手助けしたクライアントが目標を達成したり、事業に成功したり、クライアントを勝ち取ったりするのを見ると、私自身多くを学ぶことができます。
エンターテイメント業界で活躍したいという私の「初恋」は未だ健在ですが、宣伝、教育、マーケティング、スポーツ、マスメディア、法律、工学、リサーチ、デザイン、ウェブデザイン、ローカライズ、化粧品、経営、飲食料品など様々な産業でクライアントをサポートできるこの仕事は、ずばり幸福感の極みです。